
くまの手カイロプラクティック院長
小熊 俊博(おぐまとしひろ)
酪農家として、教員として、そして整体師として。
一見遠回りに見えるこの経歴には、すべて理由があります。
経歴と資格
2012年 別海高等学校酪農経営科 卒業
2016年 帯広畜産大学 畜産科学課程 経済科学ユニット 卒業
2017年 農業高校教員
2018年 (有)ベストグラス
2023年 日本カイロプラクティック専門学院
2024年 (株)RAKUNE
2025年 徒手療法大学
2026年 くまの手カイロプラクティック
資格
食品衛生責任者
ガス・アーク溶接
Excel表計算 2級
Word文書作成 準2級
大型特殊・牽引免許
代替医療法師会 認定セラピスト
第一種高等学校教諭免許(農業)
取得中の資格
・認定カイロプラクティックプラクティッショナー
・NSCA-CPT
・PHI ピラティスインストラクター
第一章:動物と、身体と、共に生きる
小さいころから動物が好きでした。憧れていた酪農家の背中を見て、いつか自分もそうなりたいとずっと思っていたのを覚えています。

大学卒業後、まず選んだのは教員の道でした。人を育てることが好きで、一度は経験しておきたいという思いから、農業高校で1年間、畜産と農業経済を担当することになりました。本当は専攻外だった農業科目まで教えることになったのは、当時学校で人手が足りていなかったからです。それでも、「どうすれば伝わるか」を試行錯誤したこの1年間が、今の自分の土台のひとつになっています。
その翌年、憧れていた酪農家の方から「後継者にならないか」と声をかけていただきました。迷いはありませんでした。ずっと夢見ていた道です。教員から酪農家へ、私はまっすぐに舵を切りました。
第二章:中腰の毎日、そして限界
酪農の仕事は、想像以上に身体を酷使するものでした。
朝4時起き。当時の牛舎は昭和初期型のタイストール牛舎で、天井が低く、搾った牛乳をバルククーラーへ送るパイプラインの通路は首の高さほどしかありません。牛と牛の間も狭く、その中で朝晩2回、スクワットのような中腰姿勢を毎日繰り返す。それが日常でした。

やがて脚にしびれが出るようになり、椎間板ヘルニアと診断されました。それでも仕事は休めません。歯を食いしばりながら作業を続け、しゃがみ作業やトラクターの操作は特に地獄のような痛みでした。夜、横になっても痛みが引かないこともありました。
病院では薬による対処だけ。当時この地域には、頼れる整体院も鍼灸院もありませんでした。我慢する以外、選択肢がなかったのです。
「頼れる整体院があれば――。」 当時、何度もそう思いました。
第三章:すべてを失った日
そんなある日、牧場が火事で全焼しました。
かろうじて育成舎だけは残ったものの、同じ規模で建て直すには何億円という費用がかかります。現実的に、同じ道を続けることは難しくなりました。「セカンドライフ」を、真剣に考えなければならない状況でした。
酪農を目指さないとしたら、自分は何を目指すのだろう。そう自分に問いかけたとき、ふと蘇った記憶があります。
母が整形疾患を患っていたとき、たまたま出張で腕の良い整体師の方が来てくれたことがありました。その施術で、母をはじめ多くの人が笑顔になっていく様子を、私は間近で見ていました。あのときの光景が、強く心に残っていたのです。
自分自身も椎間板ヘルニアで苦しみ、「頼れる場所がない」もどかしさを味わっていた。そして、幼いころに見た、人を笑顔にする整体師の姿。このふたつが重なったとき、進む道が見えました。
第四章:知識という手を、磨き続ける
整体師になると決めてから、興味があったのは鍼灸とカイロプラクティックでした。どうせなら専門的に学びたい。大阪や東京にあったカイロプラクティックの大学は、当時ちょうど閉校のため募集を打ち切っていました。
そんな中で見つけたのが、札幌の日本カイロプラクティックドクター専門学院です。校長先生と直接話し、実際に手技を受けさせてもらう中で意気投合し、入学を決意しました。1年間専門知識を学び、その後3年間、運営会社で施術に携わらせていただきました。

ただ、1年ほどの学びでは、知識にも技術にも限界を感じていました。お世話になっていた先輩に紹介してもらい、国際基準の資格を持つカイロプラクターの施術を受けに行ったとき、衝撃を受けました。
「これがカイロプラクティックか……。」
その方に相談し、解剖学と手技を3年間専門的に学べる徒手療法大学を紹介してもらいました。迷いなく願書を提出。現在も2年生として、定期的に札幌へ通学しながら学び続けています。
学びに苦労はありませんでした。もともと学ぶことが好きだからです。むしろ悔しかったのは、基礎だけでは経験でカバーしきれないことが次々と出てきたこと。それでも、徒手療法大学で学んだことを現場で実践するたびに、患者さんの笑顔は少しずつ増えていきました。

今、一番向き合っているのは「手技療法の限界を見極めること」。学びに終わりはないと感じています。
第五章:くまの手、別海へ
「くまの手」という名前の由来
私の苗字は小熊(おぐま)。だから「くまの手」です。最初から、この名前にしようと決めていました。「治療院」や「整体院」という言葉を付けることも考えましたが、私の手技は紛れもなくカイロプラクティックです。それを前面に出したくて、「くまの手カイロプラクティック」としました。

なぜ別海町なのか
地元だから、というのはもちろんあります。ですがそれだけではありません。
別海っ子は、自然の中で育つからか、身体能力が異常に高い人が多いと、昔からずっと感じていました。スケートのできる環境が多く、プロスケーターも多く輩出しています。フルマラソン大会が盛んに行われ、最近では野球のアマチュアリーグも生まれ、スポーツ興行が少しずつ盛り上がってきています。

それなのに、その高い身体能力をうまく活かしきれていない人が多く、そのせいで怪我をしてしまう人も少なくありません。それが、ずっと「もったいない」と感じていたことでした。この町を、もっと活性化したい。そう思っています。
なぜ固定院+出張+パーソナルトレーニングなのか
地元の人たちを「24時間戦える身体」にしたい。そうすることで、地元がもっと力強く、盛んになってほしい。その思いが、すべての土台にあります。
固定院だけでは、通いたくても通えない人が出てきます。だから出張診療を取り入れています。そしてパーソナルトレーニングを組み合わせるのは、スポーツ産業がもっと盛んになれば、それを目当てに別海町を訪れる人も増えると考えているからです。
これから
開院を控えた今、正直に言えば、町から離れ自然のど真ん中にある立地や集客への不安はあります。ですがそれは、この業種であれば誰もが感じることだと思っています。

それよりも、たくさんの笑顔や活力を与えられる治療家になり、人が自然と集まっていく未来を想像すると、ワクワクが止まりません。
施術で一番大事にしているのは、その人の日常生活がより良く、そして長く続くこと。専門的な技術だけでなく、心にも優しく寄り添うことを心がけています。
10年後、くまの手は、これまで施術してきた患者さんたちと笑顔で過ごしながら、スポーツが盛んな町の賑わいの中心にありたい。そう思っています。
あなたへ
私が助けられる症状なら、必ず良い方向にもっていきます。
諦めずに、一度お越しください。必ず力になります。